彼女の福音
弐拾陸 ― 居酒屋にて 下 ―
「へへへ……岡崎ぃ、聞いてくれよぉ」
飲み始めてから一時間半頃。岡崎の大将の連れ(よく有紀ねぇにちょっかいを出していた奴だ。確か春原とかいった)が顔を真っ赤にして酔いの回りきった笑い声を上げた。岡崎の大将は無言のまま猪口に口をつけた。
春原さんと岡崎の大将はカウンターに座るなり「酒だ酒、飲むぞぉ」という具合でハイテンポを維持していた。しかしその酔いっぷりは対照的で、陽気にへらへら笑う春原さんに対して岡崎の大将は「寡黙」の二文字が背景に聳え立っているようだった。
「春原さん、あんた、それぐらいにしといたほうがいいんじゃねえか」
「ほえぇ?何でさあ」
呂律の回らない舌。意味もなくぐるんぐるん回っている頭。駄目だこいつ……早く何とかしないと……
「週日の間にそんなに飲んじまったら、明日の仕事が辛いだろ」
「辛い……辛いかぁ……」
不意に寂しそうに笑う春原さん。ちっ、そんな顔をされると、俺の中の任侠道が燃え上がるじゃねえか。
「なぁ春原さんよ、男の悩みなら相談の真似事ぐらいはできるぜ。大の男がそんなに酔ってるところを見られちまったら、示しがつかねぇじゃねえか」
「見られるって、誰にだよ」
「若い衆とか、好きな女とか、いるだろ、そういうところを見せたくない相手って」
すると春原さんはぐにゃりと笑った。
「僕には、そんな大層な部下とかそういうのいないよ。でも……女ね……」
ぐびっ、と目の前のジョッキを空にする。
「どうしたんだい?女で揉め事か?」
「揉めちゃあいないよ。ただ勝手に惚れられて、勝手に愛想尽かされてさあ」
「そいつぁ……悪いことを聞いちまったな」
「愛想尽かされてさぁ……本当どこ行っちゃったんだろ」
がたん、と空になったジョッキをカウンターに打ち付ける。
「板長さん、あんた知らない?」
「知らないかって、何をさ」
すると春原さんは妙に据わった目を俺に向けた。
「杏がどこにいるのか」
あー……ちょっと待て。ちょっと待っておくんない。
「杏って言うと、あの藤林の姐御かい?」
するとがばっと春原さんが俺の胸倉を掴んだ。
「何か知ってるのっ!知ってんのかよ!」
「おいおい、落ち着きなよ……喧嘩事はご法度だって有紀ねぇに言われてるんだ。まあ落ち着けって」
目の前に水の入ったグラスを一杯置くと、春原さんはそれを一気に飲み干した。
しっかし、ねぇ?
春原さんが?あの藤林の姐御の?いやいや、いやいやいや。だいたい、こいつぁ佐々木とナシをつける時だってあんまり役に立たなかったじゃねえか。それとも何だ、こいつは実は本当に和人さんほど強かったとか?
「愛想尽かしたって、あんた何やったんだよ」
「知らないよ。ただ何か急に忙しいとか何だでさ、それだけにしちゃ何だか変な感じでさ、でも気がつきゃすぐわかる事だって、僕が避けられてるんだって」
「避けられてる……か」
しかしそれにしちゃあさっきのすみれの「いい人」云々の話が気になる。このままこいつが時化ているのもあまり見ていたくないので、「藤林の姐御ならあんた関連でうちのかみさんとそこの岡崎の大将の嫁と二階にいるけどよ」と言いたくなったが
(あ、そうそう、言っとくけどね、あの二人のいい人が来たり、何か聞いてきても、絶対に知らぬ存ぜぬで通すんだよ。だから女の話に口出してるんじゃないよっ!覗きに来ようもんならただじゃおかないからねっ!!)
すみれの滅茶苦茶怒るところを思い浮かべて、俺は口をつぐんだ。いやさ、男の尊厳とかそういうのって大事だけどよ、命あっての物ダネじゃねえか。
「それにしても岡崎の大将はさっきから静かにしてるけど、あんたも大丈夫かい」
「ああ、俺は智代を信じてるからな」
「おうおう、そいつぁいい。何たって、夫婦仲が円満なのが一番だな」
「ああ、俺は智代を信じてるからな」
「……そうかい。にしても岡崎の大将も、程々にしておいたほうがいいんじゃねえですかい?あんた肉体労働なら、二日酔いなんざ天敵だろうに」
「ああ、俺は智代を信じてるからな」
……
……
ふと岡崎の大将の前のカウンターを見てみると、一合徳利が五、六本は並んでいた。黙々と飲んでいるので気がつかなかったが、実は結構なペースで飲んでいた。
「もしかしやすと、岡崎の大将も奥さんと何かあったんで?」
「いや、俺は智代を信じてるからな」
何かあったのか……
というより、さっきからの岡崎の大将の声といい、目といい、生気のなさが際立つ。あたかも感情を一切合財封じ込めて、たった一言に全てを込めているようだった。
しかし考えてみるとどうも腑に落ちない。岡崎のトモトモタッグは巷じゃあ噂のおしどり夫婦で、夫婦仲が悪くなろうもんならうちにくる若い衆が口に出さないはずはない。それに春原さんの話を聞く限り異変が起こったのはつい最近。俺の知る限り、あの最強はチート並みに強いが、そうそう男をとっかえひっかえして平気のへいざでいられるような奴じゃあなかった。
だとすると、何が起きてるんだろうか。
俺が首をかしげている時、それは起こった。
『あ』
『え』
四組の声が同時に発せられる。目の前にはぽかんとした顔の春原さんと岡崎の大将。振り返ると、「信じられない」というような顔の最強と藤林の姐御。
「ちょっと陽平、あんたここで何してんのよ」
最初に藤林の姐御が衝撃から回復したようだった。
「何って……別に。杏こそ」
「あたしはその……ちょっとここの女将さんに用があって……」
口ごもる藤林の姐御。
「それって、僕にすら言えないこと?」
「……ん。今までは陽平に言えなかった事かな……って、あんたどれくらい飲んでるのよ」
「ん〜、どれくらいだろ。で、僕に何で言えないのさ」
「……時期?」
「何だよそれ。こんな時期に彼氏に言えない事って何なのさ」
「あーもうっ!」
腹立たしげに藤林の姐御はバッグから青いものを取り出すと、それを春原さんの首に巻きつけた。
「ちょっと……何するんだよ」
「これよこれ、あんたに隠したかったのは。少し早いけどね」
顔を赤くして藤林の姐御が視線を逸らす。少し怒ったかのような声は、そういえば照れ隠しに聞こえないわけでもない。
「全く、あーあ、そんなに飲んじゃって。明日どうするのよ?二日酔いで仕事したら、辛いのわかってるでしょ?」
「あ……うん、まぁ……」
「そんなところで燻ってない。ほら、あたしの自慢の彼氏なんだから、しゃんと立って」
あたしの
じまんの
かれし
その言葉に反応したかのように春原さんはぴくりと動くと、すっくと立ち上がった。
「親父、勘定」
「あんたに親父呼ばわりされるほど年は食っちゃいねえよ」
「雰囲気だよ雰囲気」
そう強がりを言った春原さんだったが、請求書を出したときにはさすがに顔色が少し変わった。
「ははは……ま、まぁ大したことないね。うん、あは、あははは」
「安い酒しか飲んでないのに何大きく出ていやがる」
「あははは、んじゃ、そういうことで」
春原さんと藤林の姐御が出て行った後で、俺はため息をついてもう一人の酔っ払いに目をやった。
「朋也、こんなに飲んだら明日の仕事に差し支えるじゃないか」
「ああ、俺は智代を信じてるからな」
「私を信じている?よくわからないな」
「うん?あ、智代だ」
「さっきからお前の隣にいたぞ?気がつかなかったのか?」
「でへへ〜、智代だ〜」
不意に相好をダイナマイトもかくやと言わんばかりに崩す岡崎の大将。そしてそのまま最強に抱きつく。
「うん、まぁ私だが……全く、仕方のない奴だな」
「智代〜」
「わかったわかった……すまないが、お勘定を頼む」
苦笑しながらもまんざらそうじゃない顔をする「あの」岡崎の姐御。いやぁ、人って変わるもんだな、と思った。
「で?」
店を閉めた後で、俺はすみれに聞いてみた。
「ん?今日の事かい?」
「ああ。全く解せねえ。教えてくれなきゃ頭がおかしくなるぜ」
そういうとすみれははいはい、とため息をついた。
「あの子達はね、有紀寧ちゃんから聞いたんだろうね、あたしの元に編物を教えて欲しい、って言って来てたんだよ」
「編物?」
「そうだよ。ほら、杏さんが春原さんにマフラーをあげたじゃないか。あれだよ」
あの青い物はマフラーだったのか。いや、確かにすみれは編物が得意で、俺も何度か物を縫い繕ってもらったりしたことがあったが……
「じゃあ何だって隠し事をしてたんだ?おかげで春原さんも岡崎の大将も、見てられねえほど焦燥しちまってよ」
「そりゃああんた、もうそろそろキリストさんの誕生日じゃないか」
そう言われて俺は思わずぽん、と手を叩いてしまった。つまりあれはクリスマスプレゼントで、だから贈り相手にだけは知られたくなかったと。で、この場合の贈り相手というと、いわゆる「いい人」になるわけだ。
「しかし、岡崎の姐御はまぁそれで納得するけどよ……」
「何だい、杏さんに春原さんじゃ、おかしいのかい?」
俺は頭を掻いた。
「だってよぉ、あの藤林の姐御だぞ?何つーか、もっとこう、がつんとした喧嘩っ早い若造かと思ってたんだが……」
「世の中あんたらみたいな任侠街道まっしぐらな男ばかりじゃないんだよ。いいじゃないか、ああいう二人がいたってさ。少なくとも杏さんは春原さんを贈り物がしたいほど慕ってるんだからさ」
そんなもんかね、と肩をすくめる。
「しっかしそんなに簡単に今日一日で習えるものなんか、編物って」
「冗談言わないでよ。あの子達はせっせとここに来てたよ」
「はぁ?でもいつの間に……」
するとすみれはやれやれ、と言わんばかりに頭を振った。
「あんた、休みの日はバイクに乗って勇と一緒にどっか行っちまうじゃないか。そういう時にあの子達は来てたんだよ」
そう言われてみて、俺はもう一つの疑問に思い当たった。
「しかし何だって俺にまで事情を話さなかったんだ?気づかなかったからよかったものの、俺だってここに俺の知らない客がこそこそ出入りしてりゃあ、気の一つだって揉むじゃねえか」
するとすみれは口ごもり、そして視線を逸らしたりこっちをちらちら見ると、徐に俺に白いマフラーを手渡した。
「あ?こいつぁ……」
「あんたのだよ。あたしだって、贈り物をしたい相手の一人くらいいるよ」
俺はまじまじとその白いマフラーを眺めた。
「それを着たら、あんた、バイクに乗ったときでもあったかいんじゃないかって思ってね」
「馬鹿野郎、こんなの着て、バイクなんかに乗れるかい」
「そりゃ、どうしてさ?」
きょとんとするすみれの視線に耐え切れずに、俺は背中を向ける。
「だってよ、これを着ちまったら……」
走ってる時に汚れちまうだろ。